聖者方の本を読んでいると
“私は無である”という内容の記述が出てきます。
これは前後の文章から、
本当は“私”は神と同質であるので
“私”がいるわけではなく、神がいることになるので
“私”そのものは存在しない・・・
とも解釈できます。
最初、こういった表現に出会ったとき
私自身、ものすごく違和感をおぼえました。
“私”と神が同質のものである、まではまあ置いておいて
自分が無とはどういうことだろう?と。
今ここにいる、“私”っていったい何?
という疑問がでてきて
すんなりと受け止めることができませんでした。
でも、長い間
数冊の本を繰り返し読んでいるうちに
何となく納得できるようになってきました。
別のところで
神は人間に自由意志を与え、自分で選択できるようになっている、とあります。
だから、人間は全く同じ経験をすることはなく
それぞれの道を進み経験を積んでいき、
それがその人の個性になっているといえます。
だから“無”というのは
全てが一緒で、金太郎飴のような人間という意味ではなく
それぞれの個の奥には、神と同質の魂があり
同じものを持っている、と考えていいんだと思い当たりました。
そもそも、私たちの学びの場は日々の生活の中です。
その毎日で、いろいろな人とかかわりあい
生活する中で感じ、考えていくことから始まると思います。
そのためには、ほかの人が自分と違わなければ気づけないのです。
みなさまの周りにも
到底理解できない、付き合いにくい人がいると思います。
でも、その存在が違いに気づき対処するための場になると思います。
そして、自分がひとつづつ克服していけば
「苦手な人」もどんどん減っていきます。
ただ、自分のわがまま放題やっていいわけではありません。
相手も同質の魂を持つ人間ですから
誰かを傷つけたり犠牲にしたり、自分だけを優先することは
自分のネガティブを増長させるだけになります。
本当に!毎日が学びの場です。
小さな小さなことかもしれませんが
意識して周りを見ると、気づくことがたくさんあります。
ぜひ、一歩離れた視点で周りを見てください。
※私が“神”と言っているのは、特定の宗教や何かを指すものではありません。
創造主として、まだ解明されていないこの世の根本の何か、
そして大きな愛・調和であろうものを“神”という言葉にしています。
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